8月12日(日曜日)
エメラルドの滞在日程は、日曜日から金曜日まで。日曜日は新たな子供達の到着の日。パリ出身の親、モンペリエで骨董屋を営む親、マルセイユ在住の親、様々な親が到着し、子供を置いてゆく。その度に校長は出迎え、方々を案内し、説明を繰り返す。
着いた子供達はまずポニーにブラッシング。指示もなく、適当に過ごす。そこらへんで勝手に遊ぶ。日本ではその場の空気で「テキトー」に遊べても、フランス人の「テキトー」はちょっと匙加減が分からない。指示を懸命に待つ真面目な日本人の子には少し埋めるのが難しい間。
何となく一緒にいて、何となく遊びが成り立つ、その「適当」の空気を感じてほしくて、あえて仕切らない、手助けもしない。
小さい子達が「場の空気」に取り組んでいる間、小学生達は乗馬の復習をしていた。相変わらずに馬についているのは手綱だけで、鞍はない。右に曲がる、左に曲がる、止まる、早足にさせる、進める の基本操作の復習。習得は確実である。コーナーをきちんと曲がる事を「Coin 角」と呼んでいた。「コーナーをしくじったらデザートはないと思いな!(日本語訳すると)」と、若いインストラクターが叫んでいる。デザートは通常一人桃1つ。子供達が現実的にどれほどこの果物を食べ損なうことを恐れているかは疑問だったが、皆の顔は真剣。日本語を使うと同じ調子で「En fran?ais !」と怒鳴られる。
復習の次は、2チームに別れ、真ん中の台に置いた松ぼっくりを取り合うゲーム。それが終わると馬上鬼ごっこ。
最初鬼を一人決める。鬼になった子が馬上から、別の馬にタッチしたら、その馬に乗る子も鬼になる。こうして鬼が増えゆく。馬の操りのうまい子は狭い馬場の中を時には早足、時には右へ、左へ曲がり、うまく鬼をかわしてゆく。最後に残ったのはキュルチュール組の男の子の一人。見事な習得ぶり。
馬にブラシをかけ、放牧地に戻しにゆく。そして昼食。
トマトとパプリカのサラダ、トマトと米とツナのサラダ、ゆでた大量のいんげん、鶏の胸肉、チーズ、桃。
キュルチュールの子供達は食卓でも固まらないように、3つの食卓に分けられる。
昼食後初めて、新しい子供達を含めた全員が輪になって集まった。エメラルドの敷地は11ヘクタール。広大である。行き先を告げずにどこかへ行っては行けない。馬の放牧場に一人で行っては行けない。竹やぶに許可なしに入ってはいけない。許可なしに一人で宿舎に帰ってはいけない。電気のつけっぱなし、水の出しぱなしは厳禁、携帯禁止、ゲーム禁止といった、約束事が言い渡される。
それが終わると、皆で輪になって座ったまま、好きな食べ物ゲームが始まる。順番に好きな食べ物を言い、その頭文字のアルファベット順に並ぶ。場所を類推して座らなければならない。基本的なつづりとアルファベットが分かっていなければ参加できない遊び。場所が分からなくなってしまったら、自分で場所を見つけ出すまで、いろんな子に好きな食べ物を聞かなければならない。
それが一段落すると、午後の活動について、皆にやりたいことを聞く。馬で散歩が多数決で決まる。その後子供達は、それぞれポニーに乗って、敷地内をぐるりと一周した模様。私は、栗の木の下でジュヌヴィエーヴの話を聞いていた。
ジュヌヴィエーヴの話1:この土地の批判精神、並びに戦時中のレジスタンス、およびこの家(Borie neuve)に戦時中かくまわれていたユダヤ人の女の子の話。
この地方は宗教戦争が激しかった。カトリックを押し付けたい国家に対して、頑強な抵抗をしてプロテスタントの土地である。だから、一般に人々は批判精神に富み、頑固である。第二次世界大戦中もレジスタンス運動に参加する人々を輩出している。
この農家Borie Neuveに当時住んでいたのは、今も存命の土地の農民夫婦である。パスターの勧めで、三歳のユダヤ人の女の子を預かる。ユダヤ人をかくまっていることが分かったら、本人だけでなく、かくまった人間も強制収容所行きである。
同じ村に危険なコラボラトリス(対独協力者)もいた。その子は、子供のいない夫婦の姪として育てられる。
戦争が終わって、生きながらえた親が帰ってきた。7才になった子供は親を覚えていなかったが、女の子は去っていった。
そして戦後半世紀、Medailles des Justes 正義のメダル が、第二次世界大戦中、ユダヤ人を助けた善意の人々に与えられる。Borie Neuveに住んでいた農民夫婦にも。
白髪の紳士の中年の女性(子供を預けた父と当時3歳だった娘)がやってきて、テレビ中継の下、現エメラルドのテラスの上で、メダルの授与が行われた。
その日もポニースクールは開催。Borie Neuve で3歳から7歳までの4年間を過ごした女性が、この木に登った、ここで遊んだ、と思い出を子供達に話す。急に、そこにいた子供達にとって、第二次世界大戦は抽象概念ではなく、「自分と同じような子供が本当に生きた話」へと変わった。
老夫婦の名は Odette et Jules H?brard。今も村のエメラルドから20分の所で生活している。
ジュヌヴィエーヴの話2:エメラルドの創立單、並びに、エメラルドを題材に撮影されたドキュメンタリー映画の話
研究者としてパリに住んでいた。自分の子供と親類の子供のためにポニーを買った。義理の父親がノルマンディーに農場を所有しており、ポニーを置かさせてもらうことになっていたが、直前になって断られた。しかたなしに、ポニーを別の農家に預け、休みの度に子供に乗馬をさせる。これが1971年。
子供が成長し、パリのアパルトマンが小さくなった。別のもっと大きなアパルトマンを買う代わりに、ノルマンディーに大きな農場を買った。自分の子、親類の子に乗馬を教えるうちに、他所の子も農場に預かって教え、スクールになった。
そして1973年の夏のバカンスの後、研究職に戻ることはなかった。
70年代、子供が農場に滞在して、乗馬を学ぶ G?tes equestres des enfants は他に例がなかった。
Le Figaro Magazine に見開き5ページに渡るカラーの記事が掲載される。この記事を見て、カリフォルニアから駆けつけた生徒もいると言う。
その後もたびたびメディアに取り上げられる。
80年代に離婚。ポニーの半分と娘を連れて、先祖伝来の土地 Lasalle へ南下する。今11ヘクタールの土地と、18世紀に立てられた石作りの農家2件を所有する。すでにローンは支払い済み。
モンペリエにも遺産相続した、先祖伝来の家がある。息子は建築家としてモンペリエに住む。農場?スクールは、娘のフレデリックと現在共同経営。
ここにポニーをしにくる子供の親に、映画のシナリオライターがいた。ジュヌヴィエーブは、エメラルド紹介ビデオを作ってくれ、と彼に頼む。3日の撮影予定が、12日間となり、出来上がったドキュメンタリーは、モンペリエで開催された地中海映画祭に出品され、受賞する。
作品では、パリの国立科学研究所(CNRS)に勤める生物学の研究者がいかに一転、農場経営者、ポニースクール主催者となり、調和の内に、広大な所有地において動物達とくらしているかが描かれている。
美化することもなく、宣伝くささもない。最も伝わってくるは、追求した物をを生きている間に獲得出来た、もう若くはない人(撮影当時69才、現在72才)の謙虚な幸福である。